「空地」と「広場」を巡って 〜 2016/04/13
この「脳内探訪」のひとつ前の記事「日本の広場の可能性」(2016/04/04)を書いた後に、磯崎新の『偶有性操縦法 〜何が新国立競技場問題を迷走させたのか〜』(青土社,2016)を読む機会を得た。歯に衣着せぬ、「A案(負ける建築)」「B案(みんなの建築)」批判である。そう2020年 東京オリンピック・パラリンピック競技大会の新国立競技場案に対する磯崎の痛烈な批判の文章だ。ナイフで切るというよりも、大型の鋸で伐り倒すような文章に読めたのは果たしてわたしだけだろうか。本問題について再考するにあたり、氏の考え方の要点を引用しておく。
改めて提出された案はいかにひいき目に見ても、八万人収容スタジアムというプログラムの基本的間違いをそのまま図面化しただけの単なる箱物公共建築としかみえないデクノボー。ホワイトエレファントに喩えてあった「ザハ案」でさえ、ある種のエレガントさを持っていたのに、このたびはあっけにとられる程の素朴きわまりないプログラム直訳建造物になり下がってしまった。アイロニカルな「負ける建築」ではなく、リテラルに「負けてしまった建築」といわざるを得ない。次世代にとって負の遺産であることに変わりはない。(中略)私が懸念しているのはA案、B案ともに公募要項で「配慮」を要請されていた「日本らしさ」に「木」を使用する解答を示していたことだ。「木」の使用をふくめて工期、コストの縛りが入る条件のなかでも、日本の現代建築を考慮している点では同等であるA案、B案の制作デザイナーはこんな縛りをはねかえして、逆転ホームランを想わせるようなアイデアで「ナショナル・イメージ」をつくりだせる人たちだと私は信じていたのに、「そっくりだ、どこが違うの?」と巷間で語られているような案をつくってしまったことに、私はガッカリしている。敵失で延長戦が決まったときの応援団の気の抜けたような気分である。一昨年、「日本の水没を待って泳ぎ去る亀」と「ザハ案」を喩えて私は顰蹙をかった。今回のA案、B案には喩える言葉もない。現代日本建築は救いがたい頽廃に陥ったとみえる。(pp.191)
そう断罪した磯崎は、さらにこういう。
A案、B案ともに廃棄せよ! そして、空地となっている神宮外苑の現在地を「原っパ」として残せ!(p.203)
そうして岡本太郎の言説を引用しながら、こう提案する。
この「空地」をあらたな御嶽(うたき)に見立てる。この「空地」を大規模な文化的祝祭の場にする。(p.206)
つまり、明治神宮外苑の旧国立競技場の跡地である「空地」と、皇居前「広場」と連繋して催事の場「祝祭の路・空間」が誕生するというのだ。
最後に、括弧付きの空地を巡ってこう結ぶ。
この奇跡的にうみだされた「空地」を間違ったプログラムの基づく現行案で埋めることは歴史的犯罪である。東京が東京であり、日本が日本であり、同時に地球上のひとつの場所であることを示すことのできる祝祭の機会が失われてしまう。何もない「空地」こそが次世代への最高の贈り物なのである。(p.209)
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