書くからこそ、わかるのだ
あわをとばして論じるつもりなどないが、言出ず行為は常にリスクを伴うものである。そんなことは誰に言われなくとも、三千年前から知っている。ステイタス主義だかなんだか知らぬが、ひとは勝手に人を型にはめて見るものである。でもそう見るのが人の性である。それは五千年前から承知している。
文章というものはどんな立場であれ、たとい揖譲な態度をとり続けていても、謙譲の美徳などと嘯いていても、ただ「記す」という行為によってドミナントな態勢が生ずる。そういうものだ。おだをあげていても埒があかない。そっぱずれから、こそこそ言うのは簡単だ。亡羊の嘆を決め込んでいても何もはじまらない。わかっているから書くのではない。書くからこそ、わかるのである。