平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

想像力の欠如だと思う 2014/10/12

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◆静岡大学アートマネジメント事業「実習・音楽分野」では、音楽の教員3名と音楽館の学芸員の対談が行われ、ひじょうに興味深い話がいくつも飛び出した(この場には書き切れない)。

K先生曰く、「日々の一見単純と思われる基礎練習を繰り返し行っているときにこそ、新しいアイデアが浮かんでくるんです」
千日回峰だ。元武道家のわたしには、これは実感をともなって理解できる。

F先生曰く、「何十人ものオペラ歌手の審査をしていると、審査をしているわたしの喉がガラガラになるんです」
ミラーニューロンの仕業かな。

対談の司会進行役の多いわたしは、人様の対談を拝見していると、どっと疲れが出る。それはある意味、とてもいい疲れである。

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◆ノーベル物理学賞を受賞した中村修二さんにアドバイスしたという徳島大の教授がテレビのインタビューに答えて、次のようなことを言っていた。
「彼には、失敗がないんですよ。それは成功するまでやるからです」

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◆御嶽山が噴火して多くの犠牲者が出ているというのに、ある人物は某SNSに自分が登頂したときに万歳している写真をアップしてあっけらかんとしたコメントを載せていた。
みんなが大型台風で逃げ惑っているというのに、ドンチャン騒ぎの飲み会でピースしている写真を平気でアップしている人間もいる。
台風のときにすみません!といちいち断りながら、不謹慎な写真をアップしている輩もいる。

これらは明らかに、想像力の欠如だとわたしはおもう。
わたしは、何もかも自粛しろと言いたいのではない。

大人なら、少しはわきまえたらどうだろう。

確かに禍福はあざなえる縄のようにやってくる。誰かが切ない思いをしているときにも、自分の中には別のことで笑いがある。葬儀の最中だって、何かの拍子で笑ってしまうのが人間だ。死んでいく人がいれば、生まれてくる命もある。そんな情報の見え方は、新聞を広げてみたら一目でわかる。

そう考えると、落語がお寺からはじまったという説には確かに頷ける一面がある。世の中がどんなに大変なときにでも、日常から少し外れたところで謙虚になって、人は落語によって笑いを求めたのではないだろうか。それが仏教の舞台である寺から始まったというのだからひじょうに興味深い。


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◆ここ三ヶ月、あることで3館の科学館を巡った。働き手の熱い気持ちとともにミュージアムの意外な課題もみえてくる。歩かないと分からない。ホームページではみえてこない。

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