なぜ「ねむい」のか 〜熊田千佳慕の昆虫記 2013/06/21
熊田千佳慕(1911-2009)、通称クマチカさんの展覧会「熊田千佳慕の世界」が、今、三島市の佐野美術館で開催されている(2013年5月25日〜6月30日まで)。この展覧会開催にあたり少しだけお手伝いしたこともあり、感慨一入である。
わたしはクマチカさんのずっと以前からのファンである。ファーストコンタクトは高校生のときに古本屋で見つけた某かのデザイン誌だったとおもう。
先日お邪魔した際にお目にかかった佐野美術館の学芸員 坪井則子さんが仰っていたことが少し気になった。
「ときどき、原画をご覧になったお客様のなかで、これ印刷ですか?と質問される方がいるんです」
この質問の背景にあるのは、クマチカさんがあまりにもリアルに描くために、まるで印刷のようだ、というふうにもとれる。
だが、今回改めて原画と向き合ってみると、なるほど、興味深いことが見えてきた。
原画の「一部分」が確かにぼーと見えるのだ。いや、確かにぼーっと描かれているのである。写真でいうところのピンが甘いといえば分かりやすいかもしれない。印刷用語で言えば「ねむい」に近い。
なぜ、観察に観察を重ねてリアルな世界を描ききるクマチカさんがそのように描いたのだろう。
わたしなりの答えは「そう見えたから」である。
確かに人間が「世界を見る」という行為において、その構成要素であるすべてに焦点など合わせていない。今こうしてこれを読んでくださっている方の焦点は、パソコンやスマートフォンに表示された文字にフォーカスしており、目の周辺、ガジェットの背景は何となく焦点があまくなっているはずである。
あまりにも観察眼の鋭いクマチカさんはそれをそのまま描いたのではないか。被写界深度の問題といってもいい。
もちろん、筆先にわずかな絵の具を付けて、叩くようにして描く手法によって完成をみるクマチカ・ワールドは、その技法によってそう見えるのである、という言い方も可能であろう。だがここで注意したいのは、「描く」という行為の前に、「見る」という行為(クマチカさんの場合には「観る」の字が適しているか)があるということだ。クマチカさんは、まさに「ねむくリアル」に描くために、その手法を完成させたのである。
もう一点だけ記しておく。
クマチカさんの描く虫は、どれも必ず個性がある。一匹一匹のコオロギに個性がある。蝶は同じ種でも、一頭一頭その個体が違うのである。クマチカさんは、コオロギや蝶という一般名詞を描いていない。人間が一人ひとり違うように、その日その場にいた虫を一匹一匹描きわけているのである。
※意外や意外、熊田千佳慕と土門拳がつながっていたとは!!
あぁ、やっぱりこの展覧会、会場入口で虫眼鏡を貸し出すサービス(あるいは持参する)があるといいなあ。このアイデア、この先どこかで実現して欲しい。
○佐野美術館公式サイトより
http://www.sanobi.or.jp/exhibition/kumada_chikabo/
○以前、ここ脳内探訪にさりげなく書いたクマチカさんの記事
http://www.hirano-masahiko.com/tanbou/1894.html
( ↑ )表紙絵が熊田千佳慕さん、執筆が動物行動学者・日高敏隆先生という両巨頭によって仕上げられた『世界を、こんなふうに見てごらん』(集英社、2010)
日高先生に関してはここ。
http://www.hirano-masahiko.com/tanbou/811.html
【追記】2013/07/28
今、NHK「日曜日美術館」を観ている。「まるで写真、世界最高のリアリズムと称されるアントニオ・ロペス」の中で、スペインの街(だったかな?)を描くロペスが、友人に言った言葉に膝を打った。だいたい以下の様なやりとりだ。
「絵の中心はずいぶん細かく描かれているのに周辺は、まだそこまで描かれていないねえ」と友人が言うと、
ロペス曰く。「そうさ、われわれ人間には、そう見えているんだ」。
まさに、クマチカさんの絵がそれなのである。
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