平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

「カタチ」を「言語」に翻訳する   2013/05/11

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これから、ある授業を履修している学生たちはオーギュスト・ロダンを語ることになる。
ロダンの喜び、苦しみ、痛み、怒りをわたしの肉体の一部にしながらわたしの言葉に翻訳しながら語るのか、あるいは、それらをわたしの言葉に置き換えないで、「わたし」と「日本語」の持つ「都合」で語るのか。いずれにしても美術というカタチを言語に翻訳する作業の細部に注目してみたい。見る、語る、書く、それぞれの間には何があるのか。それがこの授業の狙いである。

以下は、翻訳家・柴田元幸、伊藤比呂美、両氏による翻訳談義の引用である。この言説をいかに自分の「翻訳作業」に重ねてみるか、を考えてみるのもいいだろう。


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「翻訳道場へ」 柴田元幸 × 伊藤比呂美 (『Coyote』No.48 spring ,pp134- 抜粋)
  
リード「希代の翻訳家・柴田元幸と伊藤比呂美が、イソップ物語について、二人の翻訳の違いについて語り尽くす。」


柴田「大学の授業で学生と小説を読んでいて、上手く訳せるのに中身が全然わかっていない学生がいるんです。」
伊藤「それ、私かも(笑)」
柴田「一方で中身はわかっているけど、訳は全然駄目な学生もいる。彼らを見ていると、翻訳は中身なんかわかっていなくてもいいのかもしれないという気さえしてきます。この小説はこういう話だと全体を捉える営みはトップダウンですが、翻訳は細部細部に反応していく作業なのでボトムアップなんですよね。つまり翻訳者は木を見ていればいい。森を見るのは批評家の仕事です。」
伊藤「細部に忠実にあればいいと?」
柴田「そういうことですね。」

     (中略)

柴田「(略)僕の翻訳は肉体的というより、肉体を通ればいい。」
伊藤「肉体的な営みを具体的に言うとどういうことでしょうか?」
柴田「頭の操作があまりないということ。自分の翻訳で言うと、あまり考えて訳すときは駄目で、考えないで訳した方がいいんです。」

     (中略)

伊藤「実際に声に出しているし、改行して、詩として見て、もとの散文形式に戻して、また改行して、また戻して、と何度も繰り返す。その過程で自分の声がどんどん入ってくるんです。」

柴田「『たどたどしく読む歎異抄』の中で、伊藤さんは『訳と言うが、わたしにとってそれは、異質なことばを身の内に取り込み、それと同化しながらも差異を発見し、自分の声に移し替えるという作業である』と書かれていましたが、ここに僕と伊藤さんの違いが出ているなと思いました。」
伊藤「同じようなステートメントを柴田さんがするとしたらどうなりますか?」
柴田「『異質な言葉を身の内に取り込んで、なるべく替えないままあっち側に送り出す』となるかな。」
伊藤「柴田さんは自分の声に移し替えない?」
柴田「移し替えないですね。訳文は僕の言葉だと思っていないんです。思いたくないというか。」
伊藤「じゃあ誰の声ですか?」
柴田「訳文は作者の都合と日本語の都合があわさったものであり、僕の都合ではないと思いたい。他の人の訳文、たとえば村上春樹さんの訳を読めばこれは春樹節だなあと感じる部分があるじゃないですか。自分だけにそれがないわけじゃなく、僕の癖は訳文のどこかには出ているだろうと思う。それを前提として、目標とするのは到達可能な絶対ニュートラルな訳です。」




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上の作品「花子」を背後から見るとこうなります( ↑ )花子をモチーフにしたロダンの作品数は現在確認されているのが52。一人の人物作品ではいちばん多い数です。


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