平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

見るとはなにか、語るとはどういった行為か  〜ある学芸員の挑戦  2013/04/26


先日、大学の授業で、ある美術館の学芸員から配布された資料である。
「見るとはなにか 語るとはどういった行為か」をわれわれに教授して欲しい。そんな依頼のために用意されたその資料は、1年前のわたしなら、理解はできたとしても、まったく心に響かなかったであろう。


『美術批評と戦後美術』、星雲社、2007年。
針生一郎 美術批評家連盟50周年記念シンポジウム 基調講演 〜戦後美術批評の再検討のために (※部分)

私たちがその出発点で目指したのは、当時そんな言葉を思いつかなかったが、1970年代に登場した美術批評家たちとの「芸術の自立性」の概念に対比して言えば、「批評の自立性」ということになるだろう。つまり、権力にも資本にも支えられず、また制約もされず、個人の書いたり語ったりする文章・言説だけで、全世界と対決する決意である。

(中略)

もともと日本では、明治以降の中央集権体制が、戦後マス・メディアと大量生産システムに支えられてさらに貫徹され、地方自治も財政的には3割自治と言われたが文化面では1割自治にも達せず、地方の美術は地元の公募団体会員や大学教授以下大ボス、小ボスのランクづけられた人間関係に個々人の芸術観まで規定され、それをこえる普遍的な批評が欠けているところにローカルな限界がある。本来なら地方美術館こそ、無名の新人作家や芸術家とすら認められていない職人、工匠、物故作家を発掘顕彰する、批評機能によって地方の美術の風土を変革しうるはずだが、そういう企画展の開催したところは少ない。公共投資の絶好の名目として、まず立派な建物を造る「箱物行政」で、美術館館長以下スタッフ、コレクション、館特有の理念は後から考えるので、どこの館も似たり寄ったりになる。しかも、どこの館も一ヶ月半か二ヶ月の展覧会会期で一万人をこえれば好成績の方だから、観客動員力を目当てに内外の名作展を各地巡回展方式で受け入れることが多い。観客の方もマスコミの定評を確かめるだけに美術館に行くので、彼らが自分で好きな作品を発見しそれに惚れ込むことが全然ない。こうして美術館が各地に続々とできた結果、日本全体が怖るべき定評社会になってしまったのだ。



この資料を配付した学芸員は、まさにこの批判を越えるために、今、ある大きな展覧会に取り組もうとしている。


【針生一郎】1925年生まれ。東京大学文学部卒業。文芸・美術批評家。現在、美術評論家連盟会長


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