『くすりの小箱 〜薬と医療の文化史』につていの拙い埋め草 2013/03/21
※書きかけ
この人の書かれる文章を拝読すると、その圧倒的な歴史観と取り扱う事象の重層性の前にただ呆然と立ち尽くしてしまう。
もはや永遠に自らの目では見ることのできない、遠い異国の遙かなる中世という世界を、当時の言語で書かれた史料の中から某かの襞や肌理を丹念に読み取り、関係を発見することで、ある事柄を詳らかにし、歴史の中に位置づけようという試み。それは気の遠くなる作業である。
『くすりの小箱 〜薬と医療の文化史』(南山堂)湯之上隆、久木田直江編を読み、改めてそんな印象を強くした。
ところで「わかりやすさ」の罪についてわたしは再三各所で述べてきた。簡単に言えば、わかりやすさの提示による第三者のわかったつもりと考えることの放棄への誘引。わかりやすさ故に生ずる人文知という襞の脱落という問題である。
本書、特に『天上の薬と世俗の薬 中世ヨーロッパの医療』(p96- 久木田直江)では、一見わかりやすい書き方によって記述されているように思える論考は、先の「わかりやすさ」とは全く質が違っていて、実は一見わかりやすことを敢えて未だわかっていないところに引き下げて再構築して、再解体を試みる。その手法が圧巻なのである。その静謐な書きぶりは、識らないことを教授するにとどまらず、立ち止まって考えさせ、時には驚きさえ与える。そういった文脈に伴走することで、読み手は、知らず知らずのうちに、時代や異文化との比較考察を迫られることになる。すなわち、中世のキリスト教における病と癒しを通して、ヨーロッパの医療を俯瞰し、その1000年の歴史の前と後を繋ぐ壮大な試み。それは身体と魂の間の区別のないケアにおける教会という病院の位置づけであり、「聖体」という「天上の薬」による癒しと、「世俗の薬」としての医療と薬の捉え直しという作業である。
本論文は、氏の文章を敢えて時間をかけて書き写すことによって、書くとは何か、考えるとは何か、考え進めて行くとはどういった行為なのか、さらにいえば、考えることと書くことの間にはどんな差異が生ずるのかという課題と改めて向きあう、そんな役割も担っている。また本書の目次は、それ自体が年表(編年体)になっていることにも注意を促しておきたい。
話は逸れてしまったが、そのついでに言えば、我が家の猫の額ほどの庭は、わたしの花粉症を少しく和らげる「薬箱」にもなっている。なるほど、こんな小さな空間でさえ、中世ヨーロッパの教会や修道院の医学や医療とつながり、そこからギリシアの薬草学にも連関しているのかとおもいを馳せずにはいられない。これは、イギリスで誕生した児童文学書『ドリトル先生』(シリーズ)の庭にはなぜ図書館と薬草園が設けられているのかというという疑問の答えともなるだろう。場合によっては、ドリトル先生の屋敷全体と中世教会のレイアウトを重ねてみることで何かが見えて来る可能性もあるだろう。
一つだけ気がついたことは、本書のまえがき、並びに各論タイトル部分にだけでも英文併記があれば、もっと広く読まれることにはならないだろうか。
「どう、おしゃれでしょ!」といった構えでハーブを商っている人から、ホリスティック医学を志す者まで、広く読んで欲しい学術論文集である。
2013年3月21日深夜 ハーブティーを飲みながら。
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本書における目次全体は、最終に記した通りだが、今話題にしている論考は『天上の薬と世俗の薬 中世ヨーロッパの医療』(第3章5)で、詳細は以下のような構成になっている。
1. 第4回ラテラノ公会議と医療
1) 告解・悔悛の義務
2) 聖体拝領と聖体崇拝
3) 祈りの空間
2. 世俗の薬
1) 古代ギリシャの体液説
2) 養生訓と食餌療法
3) 薬草(ハーブ)と薬処方の拡大
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【本書 全目次】
第1章 くすりの歴史―世界の薬学
1 有史以前の医学・薬学
2 古代バビロニアの薬学
3 古代中国の薬学 ― 神農
4 古代中国の漢方 ― 黄帝
5 エベルス・パピルスの頃 ― エジプト B.C. 1500年
6 昔の商標つき錠剤 ― 刻印粘土錠 B.C. 5世紀
7 ギリシャの生薬学の祖 ― テオフラストス B.C. 300年頃
8 古代ヨーロッパの解毒薬,万能薬 B.C. 1世紀~1世紀
9 薬物学者 ペダニウス・ディオスコリデス 1世紀
10 医学,薬学の実験家 ガレノス 131~201年
11 医学と薬学の守護神 ダミアンとコスマス 3世紀頃
12 修道院の薬局とバクダッドの世界最初の薬局 5~12世紀/754年頃
13 ペルシャのガレノス アヴィケンナ 980~1037年
14 医薬分業 フリードリッヒ2世 1240年
15 世界最初の薬局方 ─ イタリア・フィレンツェ 1498年
16 薬剤師協会 ─ ロンドン 1617年
17 薬剤師としてのキリスト絵 ─ 中・近世ヨーロッパ
18 スウェーデンの薬剤師・化学者 C.W. シェーレ 1742~1786年
19 ドイツのモルヒネの発見者 F.W. ザーチュルナー 1805年
20 フランスのキニーネの発見者 ペレティエとカヴェントゥ 1820年
21 アメリカの薬学の父,薬剤学者 W. プロクターJr. 1817~1874年
22 化学療法の発達 E.F.A. フルノー 1920年
23 抗生物質ペニシリンの発見 A. フレミング 1928年
24 医・薬学史と蛇
第2章 くすりの歴史―日本の薬学
1 日本の神話時代と古代のくすり
2 日本の古代の医療とくすり
3 正倉院薬物 天平勝宝8年(756年)
4 日本史に現われた主な疾病
5 日本の古い本草学(生薬学)書
6 日本の古い病院(薬局)と薬剤師の歴史
7 全身麻酔薬“通仙散” 華岡青洲(1805年)
8 江戸時代の民間薬,売薬の歴史
9 長井長義(日本の薬学の父) ─ エフェドリン 明治20年(1887年)
10 日本の医薬分業の歴史
11 日本の薬害の歴史とその反省
3章 くすりの文化
1 病原体の発見の前と後 ― ウィルヒョーとナイチンゲール
2 薬による願望実現
3 医師はどうして薬が好きなのか?
4 研究的要素を含む薬物治療における倫理と科学の両立
5 天上の薬と世俗の薬 ― 中世ヨーロッパの医療
6 近代イギリスの家庭の薬・薬の知識
7 統合医療とアーユルヴェーダ
8 薬師如来像とその薬壷への祈り
コラム
ソクラテスのファルマコン(薬)
高脂血症
薬種業の規則
インフルエンザ騒動
万金丹
徳川家康と万病円
索引
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◆久木田直江教授の著書には以前にも小さな文章を勝手に寄せた。
http://www.hirano-masahiko.com/tanbou/466.html
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