「ひとりになりたい」ということ 2013/03/20
人が「ひとりになりたい」とつぶやくときは、いったいどういったときだろう。
そもそも「ひとりになる」とはどういうことなのか。そう言葉にして言うことで気分転換をはかりたいのか。しばらく目を閉じたいだけなのか。海でも見に行きたいのか。日常を断ち切るための旅に出たいのか。それとも、なにものかが通り過ぎるまで耳をふさいだままでいたいのか。あるいはただなんとなくそう言ってみたいだけなのかもしれない。まさか、この宇宙の中で、永遠にひとりっきりになりたいということではないだろう。
ほんとうにひとりになりたかったら、第三者から反応のあるメディア、たとえば「いいね!」がついたり、リプライが返ってきたり、リツイートされたりするようなメディアとは係わらないはずである。携帯電話さえも放り投げるだろう。
フランツ・カフカの言った、ほんとうに不幸な人は、わたしは不幸だとは「言えない」といった内容の箴言を重ねて考えるなら、「ひとりになりたい」というつぶやきは、ほんとうにひとりになりたいわけではないという自己の中に矛盾を抱えていることになる。
もともと人間は、生物学的にみても「単独の生命体としてのわたし」など取り出せはしないし、今を生きる社会思想からさえ逃れられない小さな存在なのである。もちろんそれらに抗うことは自由だが、抗ったとたんに、対象に絡め取られていることを自覚せねばならない。要は、われわれは永遠に「ひとり」にはなれないし、「関係」のなかでしか生きられないのである。
ただし、ただし、ただし、それでも「ひとりになりたい」とつぶやくのが人間というか弱き存在なのである。
【追記】
何人かの方にご心配頂きましたが、わたしが一人になりたいという意味ではありません。ご心配お掛けしました。
この場にアップした内容は、その後ペンを入れる場合があります。
※今日現在、twitter上でつぶやかれている平野雅彦さんは、私平野雅彦ではありません。
バックナンバーはここ↓から。「表示件数」を100件に選択すると見やすくなります。