平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

見るとはなにか・・ただ思いつくままに   2013/02/28

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physiognomy フィジオノミーという言葉(考え方)がある。人相、顔相、顔つきといった意味だ。フランス革命のころ、絵画を中心に発展した。ユダヤ人とそれ以外の人間を見分けるために発展したとも聞いたことがある。

physioが、自然の、生理学の意味で、physiographyといえば、自然地理学、地形学といった意味となり、Physiqueが体つき、体型のこと。言わずと知れた、physicalが体育で、physicsは物理学だ。
physiognomy に隣接する考え方にはexpression エクスプレションがある。内面が外部へ向かって現れてくることだ。思い出そう。expressionには表現と同時に表情、顔つきという意味があることを。
そうしてこのphysiognomyという概念から、シルエットやアウトライン、スケッチという言葉が次々と誕生する。普段使っているこれらの言葉は意外と新しいのだ。

人は、人の顔を想像以上に見ていない。思い出してみるといい。きょう、ある人物の顔を5分以上まじまじと見つめ続けたか。ここ数ヶ月、いや、何年過去に遡ってみてもいい。日常生活のなかで一人の人間の顔を5分見続けたことがあるだろうか。

人は、なぜ人の顔を見続けることができないのだろう。目があるモノを避ける傾向があるからなのか。それとも単に飽きっぽいのか。それならば目がないモノなら見続けることができるのだろうか。
展覧会の会場で、キャプションだけを読んで肝心の作品を見ず、さっさと隣の作品へと移動してしまい、そこでもやはりキャプションだけを読んで隣へと移動していく観覧者。これなど、読んではいるが見てはいない典型だ。
我々はいったい何を見ているのか。見るとは何か。見続けるとはどういった行為なのか。

ひとつだけわかっていることは、わたしはわたし自身の顔を、けっして生で見ることができないという事実。


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※今日現在、twitter上でつぶやかれている平野雅彦さんは、私平野雅彦ではありません。


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