切り抜いておいたからこそ考えるチャンスがある 2013/01/14
雑誌や新聞の保存・処理というのはいつも厄介だ。そのまま保存しておくとあっという間に部屋を占領するし、かといって日々切り抜きやデータ化していくにも骨が折れる。仮にこまめに処理していったとしても、そのうち必ず目的と手段が入れ替わり、いかにきちんとファイリングするかといった呪縛に絡め取られる。わたしは、片っ端から切り抜いた新聞や雑誌を鞄の中に詰め込んでおいて、時間のあるときに取り出して見ることが習慣になっている。
そんな中、以前切り抜いておいた『中央公論』(2009年2月号)の「大学の絶望」特集で、鷲田清一さん(大阪大学総長=対談当時)と竹内洋さん(京都大学名誉教授・関西大学教授)の対談を興味深く読んだ。
例えば、鷲田さんがこんな指摘をされている。
「教養というのは、いろいろな定義が可能だと思いますが、結局、『価値の遠近感を持つ』ことと言えるのではないかと思います。『教養を得る』とは、知識を得ることそのことではなくて、その知識が全体の中でどこに位置するものなのかマッピングできる力を持つということ。例えば、自分の周りにあるものを『絶対になくしてはいけないもの』『あってもいいけど、なくてもいいもの』『端的になくていいもの』『あってはいけないもの』くらいのカテゴリーに分けて、全体の中でどの位置にあるものなのか、パッとわかるようになる。」
ここで忘れられがちなのは、『あってはいけないもの』という視点だろう。『あってはいけないもの』ほど、捨てるのに時間がかかり、生活に深く食い込んでしまっていたりする。しがらみもある。従前通りだから、規則だから、といった既成概念や既成事実が邪魔して捨てるに捨てられないことも多い。そもそも人は考えたくないことをないものとして処理しようとする。
また上の鷲田さんの文章から学ぶことは、全体の中で、今わたしがしようとしていることはどこに位置するのか。この情報はどこに位置づけられているのか。もっといえば、歴史の中でどこに位置するのかという視点の重要さだ。
高学歴者を揶揄する際に、彼らの知識はマッピング情報だ、という言い方がある。パッとつかんだ情報を、ただ然るべき位置に瞬時に貼り付けるのがうまいだけであって、それは単なる情報の整理整頓で、真の教養とはいえないという批判だ。果たしてその批判の仕方は正しいのか。少なくとも、目の前にある事柄に対して、どのように向き合うかという場合、その対象がどんな性格を有し、現在どんな様相を呈しており、理解されているか。ある時代において、あるパースペクティブの歴史の中でどのように位置づけられているのか(位置づけられて来たのか)が分からなければ、正解か曲解かも判断できないであろう。云々。
それにしても捨てられない雑誌や新聞の切り抜きが多すぎる。ふーっ。
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