個別の「館」から離れて考えてみる 2012/08/23
10年以上前からいくつかの場所で発言したり、書いてきたが、わたしは美術館と図書館とが一体となった施設があるといいと考えている。それは図書館の中に絵が掛かっているのではなく、美術館に図書室が併設されているのでもない。そういった概念ではなく、入館者が、美術館と図書館とが一体となった二つの空間を自然と回遊するイメージだ。
図書館からの入館者は特設コーナーに設けられた美術書コーナーを見て、その背景を学んでから自然と美術を観ることになる。一方、美術館からの入館者は、今観た美術をもっと深く知ろうと思ったときには既に図書館に立っているといった具合だ。美術館と図書館の「境の消失」と言ってもいい。どちらの入り口から入るかは、目的次第ということになる。
美術館で人の流れを観ていると、意外と人は川のように一方向へと流れっぱなしになる。もう一度戻って気になった作品を観るという人は意外と少ない。特に人気の高い美術展ほどそうだ(ましてやエスカレーターに乗って観るような美術展では戻りようがない)。人の流れに抗することは想像以上にストレスがあるのだろう
。
図書館で、ある絵画のナゾが解け、もう一度その作品を確認しに行きたいという人も出て来るだろう。今来た道を戻ってもいいが、その先へ歩を進めれば自然と再び美術館に辿りつく。重要なのはその「巡回性」である。「回」という文字を見て欲しい。まさにこの文字のような回遊性建築をイメージするといい。ときには美術館に来ているのか、図書館に来ているのかわからなくなる。それでいい。これを実現させるには、場合によっては両館互いの哲学を尊重しながらも、一部法改正も必要になってくるかもしれない。学芸員と司書というのは、似て非なる存在である。この両者がもっと対話を重ねることで新しい関係が生まれて来るのではないだろうか。わたしはそう期待している。これはなにも美術館と図書館だけの話ではない。水族館と図書館、動物園と図書館、植物園と図書館といった複合施設も可能だろう。
ただし、これらの発想実現のためには、重要な条件を充たさなければならない。それは図書館にはきちんとした責任のある司書を、美術館には学芸員を、長期的な(雇用を含めた)計画の中で設置することだ。そうして行政が、100年先の地域や国民の知的財産を守り、育てていくという基本に立って初めて実現するのである。けして一時の気の迷いで人気企業に運営を放り投げるようなことがあってはならない。
(本稿は、もともとこの日の書いていた同趣旨の原稿をもとに、静岡図書館友の会から依頼を受けた原稿用に書き直したものです。『静岡図書館友の会 会報 10号』2013年9月発行 掲載)
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