ロダン館で恒例のプロジェクト、開催中 2012/08/11
( ↑ )静岡県立美術館のロダン館正面に設置された「地獄の門」(1880-1917) 高さ約6メートル。ブロンズの作品としてはかなりの高さです。いつもはこんな構えです。
東京は上野の国立西洋美術館でご覧になった方もいらっしゃるでしょう。それとも、パリ・ロダン美術館、チューリッヒ美術館で鑑賞したという方もおいでになるかもしれません。いずれにしろ世界に7体しかありません(内静岡県立美術館の地獄の門は鋳造6体目)。
ちなみに地獄の門はロダンの生前には完成しておりません。
( ↑ )いつもの角度から見上げるとこんなふうに見えます。
( ↑↓ ) ところが、その「地獄の門」の前になにやら建造物が・・・
題して、「ロダン館 やぐらプロジェクト」
http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/japanese/rodin/event/2012/01.php
やぐらにのぼり、普段は見られないアングルから「地獄の門」の細部が見られるという大好評のプロジェクト。
( ↑↓ )階段をのぼっていくと、目の前に現れたのが誰もが知っている「考える人」。筋肉や表情が目の前で躍動します。このポーズ、やってみるとけっこうむずかしいのです。
ご存知でしたか。「考える人」という作品が先にあったのではなく、この「地獄の門」から、独立して「考える人」という作品になったのを。ロダンは、最初「考える人」に「詩人」と名付けます。それを敢えて「考える人」に直したのです。
「地獄の門」は、ダンテ・アリギエーリの叙事詩『神曲』の地獄篇に登場する地獄への入り口にある門。「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」で有名ですね(ロダンが門の構成を考える上で参考にしたのは、ギベルティ作《天国の門》(1425-52年)です)。
こんなところで「考える人」は、いったい何を考えているのでしょうか。「考える人」とは、そもそも誰なのでしょうか。さあ、考えてみてください。
一言だけ書いておくと、相矛盾することをどう受け入れ、理解するのかということ。愛は人を傷つけもするし、幸せにもする。そんなアンヴィバレントな愛というものをどう受け入れたらいいのか。正しさとはいったい何か。解決できないこととどう向き合うか。だから人はみな「考える人」なのです(あぁ、愛ってやっぱり厄介です)。
( ↑ )「堕ちる男」は、下から見上げるのとは違って、「堕ちて来る」のではなく、やぐらの上からは「堕ちていく」に見えます。いえ、鑑賞者も一緒に「堕ちる男(人)」になってしまいます。
( ↑ )左角には、石を背負ったカリアティードが見えます。
その横にはアデルのトルソ、そうしてさらに跪くフォーネスも見えます。
( ↑ )上から下を覗き込むと(失礼)、かなりの高さ。確か高さ約6メートル。
( ↑ )横を向くと、ロダンの作品群。
( ↑ )振り向くと、遠くで何やらみんなが机に向かって作業中。豆粒大ですが、ものすごく真剣な顔つきがわかります。
( ↑↓ )で、さっそく近づいて見ると・・・真剣な顔つき、その原因は、大学生も夢中の「折り紙 考える人」づくりでした。
果たして「考える人」に見えるでしょうか(汗)
( ↓ )学芸員の川谷承子さんの「親子で見て感じる現代アート」のフロアーレクチャーで、草間弥生、小谷元彦、中川幸夫らも楽しませていただきました。
川谷さんのフロアーレクチャーは、いつも鑑賞者に問いかけてきます。
何が見えますか。
どう見えますか。
何がいちばん響きましたか。
ときには視覚を離れ、匂い、音、そうしてそこには描かれていないものを問いかけてきます。自分の言葉で考えることの難しさをいつも突きつけてきます。う〜ん、すっかりわたしも「考える人」。
http://www.hirano-masahiko.com/tanbou/1790.html
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