入ってゆき、通り抜け、出てくるもの 2012/08/10
福音館書店の相談役で児童文学者の松居直さんが『絵本をみる眼』(1978年初版、2004年新装版)のまえがきをこんな言葉ではじめている。
「“絵本は子どもに読ませる本ではなく、大人が子どもに読んであげる本です”と十数年来いいつづけてきたのだが、最近ますますその考えを強くしている。」
親は子どもに絵本を読んで聞かせ、聞かせているつもりが自らが夢中になり一緒になって本の描く世界を駆け抜けていた、そんな親子のいる風景を想像した。
こんな文章にも出遭った。
「絵本は子どもが見て楽しむものではなく、入っていって楽しむものである。外から見ているだけはなく、ほんとうにおもしろい絵本の場合、子どもは我を忘れ、夢中になって、その絵本の世界へ入ってゆく。そして一つの不思議な新しい世界を体験し、旅をし、冒険をし、再びその絵本の世界から出て、現実の世界へもどってくるのだと考えられる。つまり絵本は入ってゆき、通り抜け、出てくるものである。」
これは何も子どもの本に限ったことではないだろう。
よい本とは、________もちろん、勉強になった。知らない世界を知ることができた。知識がついた。などさまざまだが_________読み手に何某かを考えさせる本だろう。そうして行動させる力をもった本だ。一歳や二歳の幼児がいったいどのくらい考えるというのだ、と意見される方もいるだろう。ただし、幼児は幼児なりに、その年齢における知性をもって考えているのだとわたしはおもう。
さて、つづけて読むとしよう。
夕闇迫る国道、フロントガラスを急に雨粒がパラパラパラと打ちはじめた。雨粒なのに乾いた線香花火に聞こえたその音は、遠い昔の記憶をたぐり寄せて来て、一気に夏が体の中に入り込んできた。
チクチクと、21。
この場にアップした内容は、その後ペンを入れる場合があります。
※今日現在、twitter上でつぶやかれている平野雅彦さんは、私平野雅彦ではありません。
バックナンバーはここ↓から。「表示件数」を100件に選択すると見やすくなります。