切り落とされた手の解釈 2012/02/11
過日、SPAC(静岡県舞台芸術センター)「グリム童話 少女と悪魔と風車小屋」で、宮城聡芸術総監督が絵本作家スズキコージさんと対談したのを聞いた(進行役SPAC大岡淳)。
ところで、なぜ悪魔との契約では少女の「手」が切り落とされるのだろう。足や鼻ではなぜいけないのか。手は機能と美の象徴で、若い女性の象徴なのかもしれない。確かにIconology イコノロジーではそういった解釈がある。
手を切り落とされた少女を悪魔は美しいと思えるのだろうか。人間を構成しているパーツなど悪魔にとってはどうでもいいことなのか。あるいは、木や多くの植物が、一枚の葉を切り落とされたとしてもやがて再生するように生命全体をみているのかもしれない。日本では、植物のパーツが人間の体とその名称が酷似しているが(葉と歯、芽と目、実と耳など 平安時代は人間の手足を「えだ」とよんだ)グリム童話が編まれたドイツではどうなのか。グリム兄弟の集めた物語をきちんと記憶していないが、元の話では手が切り落とされているのだろうか。芝居の演出上、若くて美しさの象徴としての手という意味で命を預かったことのメタファーとして描かれているのであって、実際には切り落とされていないのかもしれない。
ところで、スズキコージさんが当日に持参された鞄の話には笑えた。その場に参加した者だけが「そのヒミツ」を共有した(笑)
いつか、スズキコージさんにわたしの名刺を創って欲しい。これはずっと以前から周りに言い続けてきているわたしの夢である。大ファンなのだ。彼の描いた絵本もかなり読んできた。こんなポップな車にも乗ってみたいしね。
http://www.hirano-masahiko.com/tanbou/1323.html
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※今日現在、twitter上でつぶやかれている平野雅彦さんは、私平野雅彦ではありません。
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