平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

そぐわない  2012/01/12

sensei


昨年暮れ、膨大にため込んだ紙物を整理していたら、映画や美術館のチラシに混じって、文庫本サイズのPR誌が出て来た。ほぼ無意識に近い状態で手がゴミ袋に向かったが、わずかに残った指先の力がギリギリのところでそれを制止した。
それはWOWOWでドラマ化された川上弘美原作『センセイの鞄』のTAKE FREEのPR誌だった(2003.1.17)。いつ、どこからもらってきたのかも覚えていない。まあ、きっと行きつけの本屋だろう。
乾いた指先でペラペラやると、わずか二ページ足らずの評が目に飛び込んできた。筆を執ったのは角田光代。タイトルは「そぐわない人々 私が『センセイの鞄』を好きな理由」。その一部分を引用してみよう。

「この小説のなかで、しかし月子の出会うもの、出会う人、出会う場所、みな、何かにそぐわないものや人ばかりだ。そぐわないことどもがひとそろいして、オセロのごとく黒から白へとひっくりかえり、一見、物語は普遍的な恋愛小説に見える。けれど、よくよく目を凝らしてみれば、ここに描かれているのは〈恋愛〉と定義づけられているものでは、やっぱりないのだ。恋愛と定義されるものにとてもよく似たある何ごとかを、月子とセンセイは共有したにすぎない。しかし、考えてみれば順序は逆で、月子とセンセイが共有するような心持ち、人が人とともにいようとする切実さがまず最初にあって、人はその得体の知れない不可思議さに〈恋〉と命名し、ようやく何かにそぐったような安心感を覚える(※ママ)ているのではないか。
私がこの小説をとても好きなのは、そぐわないものが、伸びやかなほどそぐわないまま描き出されているからだ。世のなかの提示するちっぽけな定義など、胸のすくようないさぎよさで蹴り飛ばしているからだ。」


懸命になって、何かに立ち向かっているとき、はたと冷静になって考えてみたら、それそのものに今の自分がまったくそぐわない、ということに気づいてしまったってことは度々ある。やるせない。どうしようもない。切ない。さびしい。でも、大事なのは、そこにある「切なさ」を拾い上げ、手放さない力だ。わたしは『センセイの鞄』を何度か読んだけれど、どのシーンでも、ただの一度も、安心などしたことがない。いつもどこかに小さな不安を抱えながら、言葉が折り重なっていくのが見え隠れする。満開の桜にさえ、不安を感じる。

わたしは、むしろそぐわないことにある種の美しさを感じてしまうのである。それは角田光代のいう、「そぐわないものが、伸びやかなほどそぐわないまま描き出されている」ことへの美だ。こと男女の関係においても、あるいは師弟の関係にあっても、わたしはその方が自然だとおもっている。だって、最初から「そぐってる関係」って、甘ったるくて、なんだか気持ち悪いもの。大事なのは「人が人とともにいようとする切実さがまず最初にあって」ってことである。でもそれは、切ないことへとまっすぐにつながっている。「切実さ」は当然ながら何よりも「切ない」よね。



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※今日現在、twitter上でつぶやかれている平野雅彦さんは、私平野雅彦ではありません。


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