「待つ」 鷲田清一先生 2012/01/05
書店の棚を眺めていたら、「待つ」という言葉が目に飛び込んで来た。わたしは今年のテーマを「待つ」である、と書いたばかりだ(一つ前の「脳内探訪」)。その書物『「待つ」ということ』(角川選書)は、元大阪大学総長 鷲田清一さんの「待つ」に対する哲学論考でした。
その書物のまえがきは、こう始まります。
「待たなくてよい社会になった。
待つことができない社会になった。
待ち遠しくて、待ちかまえ、待ち伏せて、待ちあぐねて、とうとう待ちぼうけ。待ちこがれ、待ちわびて、待ちかね、待ちきれなくて、待ちくたびれ、待ち明かして、ついに待ちぼうけ。待てど暮らせど、待ち人来たらず・・・。だれもが密かに隠しもってきたはずの〈待つ〉という痛恨の想いも、じわりじわり漂白されつつある」
そうしてこう締めくくられています。
「意のままにならないもの、どうしようもないもの、じっとしているしかないもの、そういうものへの感受性をわたしたちはいつか無くしたのだろうか。偶然を待つ、じぶんを越えたものにつきしたがうという心根をいつか喪ったのだろうか。時が満ちる、機が熟すのを待つ、それはもうわたしたちにはあたわぬことなのか・・・」
わたしは一つ前の「脳内探訪」で、「待つ」に対する「希望」を云いました(http://www.hirano-masahiko.com/tanbou/1692.html)。それは、鷲田先生の言葉をお借りするなら、「じぶんを越えたものにつきしたがう」ことを受け入れながら、能動的な期待行為として「待つ」という意味です。わたしは待ちたいのです。
まだ読み始めたばかりのこの本を、じぶんの体験に重ねながら、いつもよりずっと丁寧に読み込んでみたくなりました。
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