平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

希望学 玄田有史先生の挑戦  2011/10/02

kibou


先日、掛川市の生涯学習講座「掛川まちづくり塾」の講師として、玄田有史先生(東京大学社会科学研究所教授)がお見えになった。その折、杉浦靖彦教育長(本当にこの方は、すばらしい教養の持ち主)から玄田先生をご紹介頂いた。
その玄田先生の著書『14歳からの仕事道』(理論社 2005)に、こんな下りがある。


即戦力は役に立たない

私は大学で先生として働いていますが、最近、就職したら会社で最初から役に立つ人材、つまり「即戦力」として、すぐに通用する資格や語学力などを学生に身につけさせてくれないと困るなんて声を、企業から聞きます。でも私は、そんなことを言う人に対して、本当に働くということがわかってないんだなあと、いささか憤りを感じたりします。大学のときに即席で身につけた知識なんて、あっという間に時代遅れになって役立たなくなります。時代はすごい勢いで動いているんです。それなのに、すぐに役立つことばかりでホントにいいですか?って。
大学の使命は、ワケのわからん真実を、本気になって学生の一人ひとりに伝えようとすることです。自分だってよくわかってないこと、けれども大切なことだと信じて一生をかけて考え続けることを決心した学問を、学生に、ストレートに一所懸命、語りかけていくことです。
そんなもの、聴いている学生にとっては、当然、ワケわからんことだらけです。だって、話しているほうだって、完全に理解して話しているのではないんですから、当たり前です。でも、そのなかで「ワケわからん。でも、何か気になる。気になって仕方がない。だから自分で調べてみたり、考えてみたりする」って学生が一人でも、二人でも出てくれば、それは大学の講義としては大成功なんです。そこからしか、進歩はないんです。わかりやすい、誰にでもわかることからは、何も新しいことは生まれません。
でも「勉強はワケのわからんことをあきらめないこと」というのは、大学だけではないと思います。小学校でも、中学校でも、高校でも、考えたりするというのは、ワケのわからないことにあきらめずに触れ続けることなんだと、最近、つくづく思います。
(P30-32)


まことに僭越だが、わたくし平野雅彦のいくつかの文章を読んでくださっている方ならおわかり頂けるとおもうが、玄田先生とほぼ同じことを以前からずっと言い続けている。
玄田先生は2005年から東大が「希望学」なるプロジェクトを立ち上げたその主要メンバーである。そのサイトによれば「希望学は、思想・制度研究、経済・歴史分析、社会調査など、研究所の全精力を結集し、希望を社会科学します。」とある。
http://project.iss.u-tokyo.ac.jp/hope/
わたしは、希望学の何かもわからないうちから、希望学というものに、まさに大きな希望を感じて、いろいろなところで取りあげさせて頂いた。

「〈希望学〉は、今はまだすべてきちんと評価されないかもしれません。でも何十年後かに、やっぱりやっておいてよかった、そういくときが必ず来ることを信じてわたしは研究を続けています」そう仰っていた。まさに「勉強はワケのわからんことをあきらめないこと」である。


この場にアップした内容は、その後ペンを入れる場合があります。
※今日現在、twitter上でつぶやかれている平野雅彦さんは、私平野雅彦ではありません。


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