それは「説得ボタン」からは始まらない。「いいね!」の「共感ボタン」からしか始まらない 2011/08/30
「ならいごと.jp」というところでセミナーを担当させて頂いた。
演題は「説得じゃない、共感である」。わたしはこれまで、このタイトルで何度も話をしてきた。わたしが何百と係わってきたプロジェクトの総括としてのチーム論が、その骨子となっている。だが、今回はタイトルはあえて同じにして中身を一新、話の中心に「シェア」を据えた。
政府の統計によると2055年 年齢別に見た人口ピークが81歳になる。このままでは国家経済・行政の破綻である(既に破綻という説も)。そこでは、間違いなく人と人はさまざまなものをシェアしないと生きていけない。
そんななか、実際に、注目に値する動きもたくさん出て来ている。たとえば、独居老人と若者によるシェアハウスもその一例だ。そこではコミュニティー、エコノミー、エコロジー、セキュリティーのシェアがある。詳しく書いている時間はないが、東日本大震災で生まれた「復興ファンド」などもその一例だろう。
大切なことだから何度も云うけれど、わたしたちはあらゆることにおいて「独占」を慎まなければならい。江戸時代の私塾 青谿書院を立ち上げた一人に池田草庵がいる。彼は「慎独」を云う。「(知を)独占することを慎みなさい」と。同じく、儒学者広瀬淡窓の私塾は咸宜(かんぎ)園。咸宜とは「みなよろし」である。このことは、本主催の「ならいごと」にも深く通じる。すなわち、ならいごとの本質にあるのは「教える・教わる」という単純な双方向の関係ではないということだ。ただ、教室でハウツーを伝えていてはいけない。ハウツーなら、それを習った生徒達は、盗むものだけを盗み、とっとと先生のもとを離れて行くだろう。あるいは、そんなハウツーなら980円で売っている本に書いてあるじゃないかと、なるだろう。
ネットの時代になり、「言論の自由」がさらにかまびすしい。だがそれは、オレ様の意見だから何でも自由に言っていいだろう!ということとは違う。自由・公平には、リバティー(liberty)とリベラリティー(liberality)とがあって、前者は「自己決定」「自己責任」を内包している。新自由主義が元気なころ、盛んに知識人が持ち出した言葉だ。一方で、リベラリティーの奥にある概念は、「気前の良さ」である。自分の持っているモノを差し出すことだ。だが、それは、いらなくなったものを差し出すガレージセールとは違う。まだぴかぴかで、「わたし」がリアルタイムで使っているものをシェアすることだ。
「シェア」、それはけっして、「説得ボタン」からは始まらない。「いいね!」の「共感ボタン」からしか始まらない。今まさに、シェアという「行動」を、リツイートする時なのだ。わたしは何をシェアできるのか。それを真剣に各々が考える時なのだ。
当日のセミナー「ならいごと.jp」では、いろいろな事例も挙げながら以上のようなお話をさせていただきました。そうして、本当に多くのみなさまにお話しを聞いていただきました(たくさんの感想メールもありがとうございました)。わたしも「説得じゃない、共感である」や「シェア」を言い始めて、早10年。やっとそれらの言葉がシェアし始められました。
本来わたしは名刺交換というのが苦手で、あまり積極的ではありませんが、この日は、目が輝いている何十人もの方々と名刺交換ができました。スタッフのみなさん、それから対談をしてくださったブロガーのmegさん、本当にありがとうございました。心から感謝いたします。で、何を「シェア」しましょうか。
◆「ならいごと.jp」、そこではメイン事業の一つとして、静岡県の習い事を集めたポータルサイトを運営している。
http://www.naraigoto.jp/
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