平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

ゆく都市 くる都市 〜橋爪紳也さんの仕事

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 ちょっとバタバタしていて 本屋に行かなかったらこの始末だ。うっかり重要な本を見落とすところだった。アブナイ アブナイ。 『ゆく都市 くる都市』(毎日新聞社)、まずこのタイトルにピーンと来た。一見、駄洒落(駄洒落ってもともと今のように俗っぽいものじゃないけれど)のように思えるけれど、このタイトルこそコンセプトのど真ん中を射ている。そう、都市論の全テーマを網で掬ったようなタイトルだ。

 で、茶碗を拝見するように手に取れば、なんと著者は先日このサイトで少し書かせて頂いた『新菜箸本撰』http://www.hirano-masahiko.com/tanbou/87.html の橋爪節也氏の弟さんの紳也さんであった(どうりそっくりだもの・汗)。
 他に取り柄はないけれど、わたしには間違いなく直感的に良い本を手に取るセンスがある(自画自賛・汗)。
 目次を眺めれば、タワーからはじまり、遊園地、路地と広場、ビジネスセンター、水辺空間、創造都市と、重要ポイントを巡るようにキーワードが展開する。この本のコンセプト(=タイトル)「ゆく都市 くる都市」でコンテンツを挙げながら都市論を語るなら、まさにこれで十分というか、ほんとうに無駄がない。わたしなら「道」というキーワードを加えたいと考えたが、それとて語っていくうちに、「路地と広場」に集約されてしまうだろう。

 というわけで、電車とスタバで一気に読んだ。中でもいちばん刺激を受けたのが「水辺空間」の章だ。
 ここでいきなりローカルな話題。静岡市には、駿府城の石垣を運び入れた「十二双川」がある(水落なんて地名はこれに由来した地名)。まさに家康の時代には十二の舟を浮かべるに十分な川幅があったというが、今ではわたしが助走なしのジャンプで越えられる程度の川幅になってしまっている。しかも家庭用排水のドブ川と落ちぶれている。家康はきっとこの川を利用して、物資を運び込み、自身も移動の路として使っていたに違いない。これはまさに小規模の運河である。
 今度はここで18世紀後半イギリス。そこで栄えたのは運河の建設ラッシュ「運河狂時代」(運河そのものは、古くエジプトのファラオ運河などがある)。近代先進都市の運河網の原型はまさにこの時代に整備された。ちなみにパナマ運河、スエズ運河もたしかこの時代に整ったと記憶している。
 いずれにしても、静岡市も先に挙げた十二双川をきちんと整備し、人や生き物の集まる水辺を取り戻したらどうだろうか。そのとき重要なのが、橋爪氏が指摘している「浜」(川と陸の境目)のデザインだ。キワのデザイン、縁側のデザインとも言い換えられるだろう。この浜という指摘は、道の駅や街の歩道にも活かせるだろう。

 そうそう、熱を入れて読んでいるうちに、この本にかかっている帯がずれていることに気付いた。で「ゆく都市 くる都市」のタイトルが、「ゆくゆく都市 くるくる都市」(※下の写真)と読めたのだ。なるほど、これは「“ゆくゆく都市”というものの重要性がわかりました。“くるくる都市”を回遊して自分の目で観察し続けることこそ重要なんですね。ベンヤミンしてみます」という自分の態度が明確になった。すごい仕掛だ(まさにこれこそ、つまらない駄洒落といいます・汗)。橋爪さん、勝手に解釈してすみません。ぺこり(面識はございませんが)。

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ちなみにちょっと覗いてみませんか[橋爪紳也氏プロフィール]
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/asia/teacher/hashizume/

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