何のために学ぶのか 誰のために学ぶのか 2011/04/04
先日ある教育関係の集まりに出席した。その場には、(曖昧な表現で恐縮だが)若者達も20人ほど席を並べていた。
ある社会人が若者達に向かっておおよそ以下のようなアドバイスをした。
「努力した結果がいかに自分に返ってくるか、そこをきちんと想像しよう」と。若者達も、少なくともわたしの隣りに座っていた社会人も、何度もうなずきながらその話を聴いていた。
ものすごく正直に書くと、わたしはこの言葉を聞いたときに、とても切なくなった。自己成長という羊の皮を被った自己利益の追求、これがここずっと教育現場を覆ってきた「殺し文句」であり「自己利益欲を肥大化させるスキル」なんだと再認識した。
わたしは教育の本来の姿は「努力がいかに自分にとって有益な(出世と金儲けの)将来を保証するのか」ではなく、まず伝えるべきは「なぜ、あなた(をはじめ一人一人)は自己努力によって、自己の利益よりもまず公共や国家の公益を優先させなくてはならないのか」をきちんと伝えるべきだと考えている。全体主義や共産主義の話ではない。それはなぜ国家に於いて義務教育が定められているのか、という問への回答と同じである。
自己利益の増大はひじょうにわかりやすい可視化である。だからこそ伝わりやすいし、洗脳しやすい。「あなたのためを思って云っているのよ」とついつい口をついて出てしまう。だが、「わたくしの利益」よりも、「隣人の益となる学問」、それが、国家が国家として継続してカタチを保っていくもっと重要なミッションではないだろうか。教育はまずそこを伝えるべきだ。自己利益の増大が重要なら、そもそも文学 Language & Literatureなどなくてもいい。詩の暗唱などとっととやめて、みんな一刻も早く「特許の取り方」を学んだ方が有益だろう。
「自己利益の増大も大切です。でも、公共利益を同時に考えた方が・・・」と逃げ口上を述べるのは楽だ。わたしは敢えて、「公共のため、隣の人のために学ぶ」と言い切っておきたい。
生き物のカタチは実に美しい。自然のなかで生き物はあるべき姿をとっている。答えはこうして既に目の前にある。問の方がうまく立てられないだけなのだ。
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