学生の本業は「学問」である。
アーティストの日比野克彦さんたちと、若手クリエーターを育てるコンペをおこなってきた(「SING」)。都合三回、回を重ねるにつれ、全国から実におおくのクリエーターの卵たちが参加してくれるようになった。作品の多くは、ひじょうに骨太のコンセプトに仕上がり、ロジックの組み立ても巧くなっていった。わたしは、審査員と同時に、審査当日の司会進行や日比野さんとの対談も引き受けていたためか、彼らの実力の高さが良く伝わってきた。
しかし、審査後、何人かの学生と話をする機会があり、そこでおやっ?と思うことがあった。大学や専門学校で何を学んでいるのかと問うと、ほとんどすべて学生が、口をモゴモゴさせるのだ。専攻の話ではない。その学部で何を学び、それが具体的に今の作品づくりや学生生活のどこに活きているかという一階層深い話だ。その回答がモゴモゴなのだ。
わたしが日比野さんを高く評価するのは、自分の作品と生き方、その両方をどのように編集して作品を作っているかという自分の言葉をきちっと持っている点だ。今までのクリエーターは「良い作品さえつくっていれば、寡黙で良いでしょう〜、なんか文句ある?」というスタイルだった。だが残念なことに、これでは国際舞台で通用しないことは、村上隆の論を待たずとも明白だ。
それに倣って云えば、大学や専門学校で学ぶことは、それはそれ、作品づくりとはあまり関係していません・・モゴモゴモゴ・・・、では通用しないのである。
学生が在学中に社会とつながることや起業したりすことが流行だ。わたしはそれを否定しないし、わたしが実践していることもそう見えるかもしれない。だが、学生の間にきちんとやっておかなければないことは、まず第一に「学問」だ。学問は、いつ抜くとも知れぬ知の刀を磨き続けることだ。役に立つか立たないかは今の自分の尺度で見てはいけない。未来の自分という尺度で見るべきだ。
口を酸っぱくして云いたい。耳にたこができるまで云い続けたい。社会とつながり、そこで学んだことをきちんと学びの場に活かす。それが学生のあるべき姿だ。そこに欲しいのは「作品づくりが学びのシーンをこう変えました。学問するってやっぱりおもしろいです」という実感とそれを表現する言葉である。