平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

いま改めてデザインを考える  〜東北関東大震災におもう 2011/03/14

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物やサービスの「デザイン」は、人口の約一割であるアッパークラスのために機能している。なぜならそこがいちばんビジネスになるからだ(わたしはそれを悪いことだとは思わない。経済行為とはそもそもそういうことだし、人は知らず知らずにそういった環の中に絡め取られている)。
だが、緊急という意味で真に「デザイン」を欲しているのは明日とも知れぬ命を抱える一割から二割の下層階級の人々であり、そうして何某かの大規模災害を受けた人々である。ここでいう「デザイン」とは広い意味でのものづくりを指す。
今回の地震でも、堅牢で巨大な人工システムによって人類は翻弄されている。「世界一安全なシステム」はもろくも破壊され、暴走を繰り返している。堅牢で安心安全な巨大なシステムの開発は、常に「想定外」のアクシデントによって破壊され続けてきた歴史でもある。

実は我々を含む生命は、敢えて「壊れやすく」つくられている。それによって、ここまで生きながらえてきた。というのは生命を構成するタンパク質、その生成方法はどんな生物でもたったの一通りしかないことがわかっている。植物も人間もライオンも同じである。だが逆にタンパク質を壊す方法は十数通りが確認されている。このことからもわかる通り、生命はあえて「壊れやすさ」を選択しているのである。言い換えると、壊れやすくつくることで、「壊される」前に自ら先回りして「壊れる」という方法を選択しているのだ。
DNAの二重螺旋の片方はあえて外的要因を受けて変容しやすくできている。だからこそ「進化」が起きるのである。仮に両螺旋とも堅牢につくられているとすれば進化など決して起こらないだろう。そもそも螺旋を二重につくる意味すらない。一本の太くて頑強な構造をつくればそれですむのである。だが、生命は、決してそれを選択しなった。

我々は今回の体験を活かし、生命の方法そのものに注目し、学ばなければならないだろう。
今「デザイン」は、大きな課題を突きつけられている。そうして、(いきなり論は飛躍するようだが)強固な持論を展開し過ぎることは、常に「想定外」の前に倒れる、ということも同時に教えてくれているとわたしはおもう。



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