平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

中学生Mちゃんの難問にお答えします  2011/02/27 

pencile



中学生Mちゃんから、またまたメールをいただいた。
ご本人におことわりし、彼女から頂いた携帯メールをこの場に掲出します。ただし、絵文字はカットします。


平野せんせ こんばんは 私は最近 ママが昔読んでいた川原泉の『カレーの王子さま』というギャグマンガにはまっています。平野せんせは、知っていますか? 
ところで、先生と師匠の違いって何ですか。何冊か辞書を引いたりして、自分でも考えているのですが、まだちゃんとわかりません。いろいろな本を読むと、先生と師匠を混同して使っている文章も見かけます。
 今度カレー、ごちそうしてください。死んでもいいなら、わたしのつくったカレー、食べますか? 




Mちゃん、こんばんは 
花粉が吹き荒れていますが、Mちゃんは大丈夫ですか。平野せんせは、かなりひどい状況です。毎年マスクなどしないのですが、今年はマスクが欠かせません。家の中でもマスクを外しません。従来からの寝不足と薬によって睡魔に襲われ、それでなくとも回らない頭がさらに低速で稼働しています。そんな状況ですが、さっそくMちゃんの質問にお答えします。

先生と師匠、日常生活ではよく混同して使われていますが、厳密にはかなり異なった意味を含んだ言葉であり、違った態度を示す両者です。
端的に云ってしまうと、先生は教えてくれる人、師匠は何も教えてくれない人です。Mちゃんはこの云い方に、違和感がありますか。でもほんとうなのです。それを今から説明します。
先生は主に公教育の現場を活動の拠点としています(もちろん現実には「先生」と呼ばれるひとにも幅があります。それはたとえば、中国ではその昔、花魁(伎女)を先生と呼んだり、日本では政治家を先生と呼んだりします)。この場合の先生は、正しいことを最優先し、教えを乞うひとたちに向かってその内容を伝えます。
正しいことを正しく伝えることを旨とするため、ときとして融通の利かない人、杓子定規などと揶揄されることもあります。

一方、けっして「正しさ」「正確さ」という文脈の中だけに存在しないのが師匠です。師匠は時と場合によっては、道徳的価値、倫理の欠如、モラルハザードという面ではそこをいとも簡単にひょいと飛び越えることをします(実は先生といわれる職業人はそこがちょっと苦手でもあります)。
そもそも師匠は何も教えてくれません。ただ「そこにいるだけ」の存在です。教えてくれるどころか、何を考えているのかさっぱり解らない人です。解らないからこそ、人々は師匠にどんどん興味を持って引き込まれていきます。そうして「わたしの師匠はあなたです」と勝手に自称弟子から宣言されることを担保とし、師匠と弟子の関係が成立します。逆に「わたしはあなたの師匠である」と宣言するなど、そんな野暮で無粋なことなど師匠はしません。自分のことを師匠だと名乗る人もいません。
お稽古事では「おっしょさん」という言葉が使われますが、これは「お師匠様」のことで、自らわたしは「おっしょさんである」という師匠にも、幸いにして平野せんせは一度も出会ったことがありません。

ところで、Mちゃん。ここでひとつだけ昔の話を差し挟みます。Mちゃんは一休さんを識っていますよね。室町時代前期の臨済宗のお坊さんです。号を狂雲子と名乗ります。お坊さんであると同時に詩人でもあり書家でもあります。というか詩人であり書家でないと、お坊さんになれなかったともいえるんですけどね。歌を詠めないと茶人とはいえないのと同じです。Mちゃんにはまだ刺激が強いかもしれないけれど、一休さんの書いた『狂雲集』という書物をいつか読んでみてください。お坊さんのイメージがまったく変わってしまいますよ。なんといっても「狂う雲」ですからね。
話を先へと進めますね。
ある宵、一休禅師はね、琵琶湖の湖岸で船にゆられていると、闇の中からカラスがカーと鳴くのを聞きます。そうして、一休さんは悟るのです。「闇夜のカラスは見えないけれど確かにそこにいる。仏も目には見えないけれど間違いなくそこここにおいでになるのだ」と。
実は、この逸話が師匠と弟子の関係をとてもよく表しているのです。Mちゃんはカラスを師匠だと思ったことはありますか(笑)
カラスが一休さんに「そもそも悟りというのはね」と教えたわけではありませんよね。しかし一休さんはあるタイミングでカラスがカーという鳴き声をあげたことをもって悟りを得たのです。この場合は、一休さんの師匠はカラスであるとみるのです。要するに弟子が勝手に、「師匠はこれこれこういうふうにわたしだけに向かって、とても大切なことを伝えてくれたのだ」。そういったある意味勘違いを与えて続けてくれる、それが師匠という存在なのです。わかりますか、Mちゃん。
「ひとつだけ昔の話を差し挟みます」と云ったけれど、もう一つ思い出しついでに書いておくと、白隠禅師もコオロギの音を聴いて、16歳のときにいったんは軽蔑し放り出した法華経のほんとうの意味を42歳で突然悟るんですよ。もう云わなくてもわかるでしょう、白隠さんの師匠はだれなのか。ちなみに白隠さんは、今の沼津市出身ね。

先生イコール師匠ではありません。でも師匠も先生もとても便利な言葉なので、Mちゃんが指摘するように一般にはごっちゃにして使われています。とても都合のいい言葉です。でも平野せんせはそこを厳密に切り分けてみています。教育を語るときにもそこをいったんは分けて考えた方がいいと思っています。

そうそう、「○○せんせ」といういい方は、よく評論家が他を揶揄するのに用います。さらに片仮名表記で「○○センセ」と呼んで他人の考え方や文章を斬ったりします。ときとして、相手方をしつこく追い回し人格否定までします。これはもうパワハラですね。

そういえば、先生は公的書類をもって募集されますが、師匠はそもそも募集などしていません。パートアルバイトニュースでも、師匠は募集していないでしょう。ですから自分で探し出すしかありません。
道教にこんな言葉があります。
「師匠は必要だと思ったときに向からやってくる」
では必要だと思うときとはどういうときか。それはね、何かについて強く学びたいとおもった瞬間です。Mちゃんも、箸の上げ下ろしまで真似してみたいとおもえる師匠を探してください。決して焦る必要はありません。時間をかけて探し出すのです。

そうしてここからがとても重要なことですから(今までの話はすべて前フリです)、ちゃんと覚えておいてください。それはね、師匠を持つと云うことは、単なる憧れではつとまらないということです。その人が好きというだけでは師弟の関係は築くことはできません。一瞬、戯れ言で「わたしの師匠はね〜」ということは簡単です。師匠を持つ、きっとそれは苦しみを伴うことにつながります。辛いことです。何がどんなふうに辛いかはここでは書きません。なぜ書かないか。それは平野せんせが面倒になったからではありません。Mちゃんがいくら優秀でも、それは体験を通してしか伝わらないからです。もう一度繰り返し云います。
「師匠は必要だと思ったときに向からやってくる」

『カレーの王子さま』、読んだことがありません。今度貸してください。
平野せんせはもう少し生きていたいのですが、Mちゃんのカレーも食べてみたいです。欲張りですか。 じゃあね、またね。






■最近の、中学生Mちゃんとメールのやりとりはこちらを参考にしてください。

http://www.hirano-masahiko.com/tanbou/1476.html

http://www.hirano-masahiko.com/tanbou/1473.html

http://www.hirano-masahiko.com/tanbou/1493.html





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