もう一度書いておく「慎独」と「咸宜」 2010/12/27
神戸女学院大学の内田樹さんが、ブログ「内田樹の研究室」(2010.12.26)で以下のこと書かれていた。内田さんは、いろいろなところで「引用自由」と発言されているので、許可の手続きなくここに部分を引かせて頂く。特に「才能ある若者」は、面倒だと思わないで解るまで何度でも読んで欲しい。
才能はある種の贈り物である。
それに対する反対給付義務は、その贈り物のもたらした利益を別の誰かに向けて、いかなる対価も求めない純粋贈与として差し出すことによってしか果たされない。
けれども実に多くの「才能ある若者」たちは、返礼義務を怠ってしまう。
「自分の才能が自分にもたらした利益はすべて自分の私有財産である。誰ともこれをシェアする必要を私は認めない」という利己的な構えを「危険だ」というふうに思う人はしだいに稀な存在になりつつある。
でも、ほんとうに危険なのである。
『贈与論』でモースが書いているとおり、贈り物がもたらした利得を退蔵すると「何か悪いことが起こり、死ぬ」のである。
別にオカルト的な話ではなくて、人間の人間性がそのように構造化されているのである。
だから、人間らしいふるまいを怠ると、「人間的に悪いことが起こり、人間的に死ぬ」のである。
生物学的には何も起こらず、長命健康を保っていても、「人間的には死ぬ」ということがある。
贈与のもたらす利得を退蔵した人には「次の贈り物」はもう届けられない。
そこに贈与しても、そこを起点として新しい贈与のサイクルが始まらないとわかると、「天」は贈与を止めてしまうからである。
以前、内田さんが講演の中でおっしゃっていたのは、同じようなことだ。
http://www.hirano-masahiko.com/tanbou/1372.html
そうして、わたしが2010.10.4に脳内探訪で書いた「慎独」と「咸宜」も同様である。
http://www.hirano-masahiko.com/tanbou/1361.html
すなわち「あの人は冷たくなった」のではなく内田さんの言葉を借りるなら贈与のもたらす利得を退蔵した人には「次の贈り物」はもう届けられないのである。
一言だけ付け加えておくと、わたしはそこまでクールなスタイルを選択しながら生きていない。
先日も引用した孔子の言葉を再度引いておく。
子の曰わく、如之何、如之何と日わざる者は、吾れ如之何ともすること末きのみ。
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