知り尽くしたいという飽くなき行為
博物館の協議会委員を務めている。平たく云えば、博物館をいかに活性化するかに智慧を絞ることが任務だ。
わたしは、中学生のころから父親に連れられて休日ごとに博物館や美術館巡りをした。それらが飛び火して、水族館や動物園も大好きになった。博物館や美術館では、今では当たり前になったテーマごとの展示品を存分に楽しみ、そうして世界の広さと多様さをテレビや書物、映画よりもむしろ博物館で知った。
出てくる息子に待ちくたびれた父親は出口付近の長椅子でうたた寝をしているが常で、それでも父親は、もっと早く出てきなさい、といったことは一度もなかった。二時間でも三時間でも平気で待っていた。
また父親は、書画の収集を趣味とし、まあ、ほとんどは贋作であろうが、それらを前にああでもないこうでもないとご託を並べて聴かせた。
切手集めにも過剰な人で、膨大な数を網羅的に収集した。そこに描かれている鳥や魚、国立公園から国定公園、浮世絵から人物など、絵面のすべてを語り尽くすことで、また新しい知識を仕入れることに情熱を燃やしているようにもみえた。田舎暮らしの百姓にしては、いったいどこで勉強するのかと思うほど、良くものごとを知っていた。そういった意味で、父親がもう一つの博物館であった。
現在、博物館の多くは存続の危機にあるレッドデータ施設だ。そこには決まって指定管理者の問題が起きる。いずれにしても、市民のひとりとして精一杯のアイデアを出し切りたいし、職務を全うしたい。情緒的な言い方にはなるが、それが今は亡き父親への恩返しと考えている。