パレードの法則は読書に活かせるのか 2010/06/22
毎日新聞(2010/06/19)を読んでいたら「20%の時間で80%の内容を理解せよ パレードの法則」)という記事のなかに、こんな下りを見つけた。
「私(K間和代)は速読も推奨していますが、これは20%の時間で80%の内容を理解できるなら、100%の時間で100%理解した本を一冊読むより、20%の時間を5回使って80%理解した本を5冊読んだ方が効率がいいし、自分で考えるようになるからです」。
なるほど、確かに大量の本を読むのはいいことだとおもうし、その手段としての速読というのはあるのかもしれない(そもそも何をもって速読というかわからないし、何をもって80%理解したというのかもわからないけれど)。わたしもときには超高速で読書をする(きっと人から見ればかなり遅い)。だがたったこれだけの文章のなかにどうしても気になる箇所が二箇所(も)出てきた。
一つは「効率」である。読書に効率ですか。もっとも、K間さんという方は、他の文章を拾い読みしても同じだが、常にビジネス書が読書体験であるという前提に立って発言をされている。福田和也と坪内祐三の対談本『無礼講』(扶桑社 2009.06.15)で「 『読書進化論』でK間さんは“読書で人生は豊かになる”みたいなことを言っているの。なのに、最後に出てくる“私を進化させた20人の著者”ってリストを見ると、すごいわけ。文学がほとんど出てこなくて、文芸で挙げられているのは、桐野夏生さんはよしとして・・・だれだっけな。筒井康隆、新井素子、林真理子。これだけ。」(坪内の発言 321ページ)と突っ込まれている。
気になる点のもう一つは、「100%の時間で100%理解した本を一冊読むより」の部分である。確かに暗記物やビジネス書なら効率読書がいいかもしれない。だが、例えば、小説をはじめ、哲学書の類はどうだろう。効率的に読んで80%も解った気になって読書が終わる。これでK間さんの云うように「自分で考えるようになる」のだろうか。少なくともわたしは「100%の時間で100%理解した本を一冊読む」ことを大いに容認している。
そうして、そもそも読書とは非効率的な行為だと思っている。だって積極的に読むという行為がないと、そこに本があるだけでは何も起こらないからだ。きっと、非効率的な行為だからこそ、K間さんは効率的に処理したいのだろう。
少なくともわたしにはそういったセンスがことごとく欠如しているので、K間式読書思考で本に向かい続けることは無理のようである。
読(讀)むという行為は、その漢字のつくりから、神に向かって祝詞をあげることである。唱えるように声を出すことである。また、「読む」は「(神を)呼ぶ」に語源が近い。効率的に読む(呼ぶ)、では神の逆鱗に触れるであろう。
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