やっぱり色気だとおもう 2007/07/25
学生が今年も頑張ってくれている。3期目を迎える天晴れ門前塾だ ☆。それは、各界のキーマンを学生自身が選び抜き、交渉し、学外にゼミをつくるそんな学びの場だ。静岡大学の情報意匠論の授業から生まれた。たぶん全国にも例がないだろう。現在、静岡大学だけに留まらず、他の大学や専門学校の学生も学んでくれている。
天晴れ門前塾では、学びの場の中締めとしてプレゼンテーションを行う。成果発表会だ。学生の成果発表会を見てくださった方は、「鳴り物入りが、え?こんなもの」とおっしゃるかも知れない。もちろん限られた時間の中で最高のパフォーマンスをするのがプレゼンだ。そこには言い訳など許されない。ただし、ここでプレゼンできることなど、各学生が身につけた成果のほんの一部でしかないことをわたしはよく知っている。少なくとも先生(組長)と学生(学徒)の離れがたい関係はプレゼンなどできるものではない。
実は、この師弟関係こそ、この企画を立ち上げる際にわたしが最初にイメージとして描ききったことであった。極論すれば、天晴れ門前塾の成果はそれだけでよいと思って企画したともいえる。人生でもっとも大切なことのひとつは間違いなく良い師匠と良い弟子とが巡り会うことだ。
とはいえ、わたし自身もまだ不満がある。それはむしろプレゼンがうまくなって欲しいとか、礼儀正しくしろとか、そんなことではない。天晴れ門前塾が健全でありすぎるという点だ。わたしには、眩しすぎる。もっともっと怪しくありたいし、妖しくもありたい。幽玄だ。色気が足りない。色気だよ、色気だ。天晴れ門前塾は、活動という舞台全体に明かりが当たってしまっている。妙にこそばゆい。どう僕たち健全でしょう、健康的でしょ、というのはどうなんだろう。社会という側を設定するなら、そこからはどうしてもそんなふうに見えてしまうのだ。
太陽の光りは万物を照らし、恵みを与える。ただし、満月の晩に珊瑚が産卵し、ジャガイモの芽がでることを忘れてはならない。「明」という文字の中では、日と月が同居する。太陽だけが、明るさをつくらない。月的なるものをいかに意識し、取り入れるかだ。天晴れ門前塾がその先へ進めるかどうかのカギは学生の「明」の解釈にあるだろう。
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