平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

なぜ「自分」というか  2007/07/21

hirano

 先日あるカウンセラーから質問が来た。
なぜ、「われ」という意味を指す言葉に「自」と「分」という漢字を使うようになったか、という問いである。      
 こんなふうに答えてみた。

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 ご質問の「自分」についてお答えします。なるべく、かみ砕いて書いてみますね。以下の文章を何度か読んでみてください。たぶん辞書にはきちんと説明されていないと思います。それでも、分からなければ正直に、「こんな説明じゃ、分からない」といってください。そう、「分かる!」ということが、「自分」という言葉を理解するときの重要なポイントになります。   
 まず解釈は、二つあります。ひとつ目は、「“自”らが、わたし自身だといういうことが“分”かる」という意味の「自分」です。これはデカルトの「我おもうゆえに、我あり」(他のことはよく分からないが、今考えている自分は、ここにちゃんと間違いなく存在しているんだ、文句はないでしょう)につながる解釈です。他の人のことは、そもそも、いるのかいないのかさえも分からないけれど、「自(身)」のことは「分」かる。そういう存在そのものが「自分」だ、ということです。      
 で、もう一つ。分かるということは、分けることです。他者と己を分けることで、自分という存在がはじめて明確になる。それで「自分」なんです。外界や他者と己を分ける行為そのものが自分です。赤ちゃんが生まれたときに、オギャ〜と泣くのは、もちろん呼吸をするという説明だけでも十分なのですが、声を出して泣くことによって、外界と自分を「分ける」。分けることで自己を獲得する行為である。そう説明する医師や哲学者もおります。そう、(外界や他者と)分けるとことによって、(己=自だと)分かる。という意味の「自分」です。
 う〜、回りくどすぎて分からないかな?テーマが完全に哲学なんですよ。分からなかったら、分からないっと言ってね。

※関西では、相手を指すときに「自分」という言葉を使いますね。「自分はどう考えているの?」というふうに。語尾が違うか。


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