平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

三夕を眺めてみると  2010/02/21

sora11


「三夕」といわれる三首を改めて眺めてみた(「さんゆう」なんて読まないでね)。



心なき身にもあはれは知られけりしぎ立つ沢の秋の夕ぐれ  (西行)


さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕ぐれ  (寂蓮)


みわたせば花ももみぢもなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ  (定家)



ワビとは何か、サビとは何かをずっと考えてきたわたしは、定家(1162-1241)の、もうそこには何もない、何もない冷え冷えとしたそこにこそ美(冷えサビ)があると詠んだ「浦のとまやの秋の夕ぐれ」にずっと惹かれていた。
ところが最近は自分が歳を重ねてきたせいか、西行(1118-1190)の一首「しぎ立つ沢の秋の夕ぐれ」の寂寥にひじょうに心惹かれている。わたしが今まで気づかず素通りしていたのは「心なき身」である。喜怒哀楽の一切を捨て仏道に身を投じたはずなのに、しぎ立つ沢の秋の夕ぐれを眺めていると、身が引き裂かれそうな気になってくる、そんな気持ちを詠った一首だ。
西行を読んだあと、他の二首を改めて眺めてみると、寂蓮(1139-1202)も定家もその天才性の方ばかりが見えてくる。






◆詩人の長田弘を「な」のコーナーに並べてあるそこの本屋さん、大至急直してください。


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