平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

厭だ 嫌いだ  2007/07/20

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 岩波文庫が嫌いだ。権威主義だから?いや、そんな理由ではない。あのテカテカしたカバーが嫌いだ(注意:英語では、カバーといえば表紙のこと)。そんなこと?と云わないで欲しい。装丁や造本は読書をしている最中、いや、読書が終わってからもずっと目につく存在だ。とくに表紙の質感は、読書の最中ずっと主に手を通して伝わってくる。故に読書のノリやスピードなどの環境を左右する。だから素材が大事なのである。誤解を恐れずに云えば、デザインは「表面」こそが大事なのだ。
 岩波文庫で最高に厭なのが、もともと巻かれていた帯の形骸化だ。以前(ちゃんと調べていないので今は年月日を記さない)は、ジャンル別に、赤帯、青帯、黄帯などが腰巻きとしてその体に巻かれ、品格と風格を保っていた。そうして控えめに、奥ゆかしく、半透明のパラフィン紙が全身を包んでいた。さすが、平福百穂(ひらふくひゃくす)の手による装丁だ。それが時代と共に形骸化され、帯の色だけが申し訳なさそうに、背の下の部分にちょこんと残っている。
 もちろん理由も理解できる。店頭で売れずに残っている本はタイトルが見えなくなる。パラフィン紙が日に焼けてしまうのだ(今のカバーもかなり日に焼けるのである)。おまけに岩波は本屋さんの買い取りだから返品がきかない(だから、まちの小さな書店は置きたがらない)。他にも、汚れやすい。(カバーが)破れやすい。これではお客さんも書店員も扱いにくいというのが、テカテカ つるつるの大きな理由だろう。品格とは、合理化の対極にある、そういうことだ。
 で、自分の本棚を眺めてみた。文庫のコーナーである。あるある、ざっと数えただけでも300冊以上の岩波文庫である。要は、装丁より中身である、そういうことだ。岩波文庫でしか読めない作品がいっぱいある。しかも廉価ときている。さすが80周年の重みである。これはありがたいことだ。今でも、わたしは岩波文庫が置いていない書店では、本を買う気になれない。
 でも、でも、でも、である。嫌いなものは嫌いだ。厭なものは厭である。何とかならないのだろうか。むっ。
 岩波文庫といえば、個人的に辛い想い出がある。ある人の大切にしてきた段ボール箱一杯分の岩波文庫、主に赤帯シリーズを、わたしの勝手な判断で捨ててしまったことだ。もちろん相手も大いに傷ついている。最近は、このことを思い出すたびに胸が痛くなる。もちろん買い戻すことは容易だ。しかし、そういうことではない。  ただただ、謝るのみ。すみませ〜ん。


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