わたしが丸眼鏡の理由 2010/01/07
わたしが丸眼鏡を好んでかけるようになったのは、ジョン・レノンの影響でもなければ、荷風の『断腸亭日乗』にイカレたからでもない。心底しびれた西田幾多郎という哲学者の丸眼鏡を真似したのである。
西田哲学を、彼の言葉で思い切ってまとめてしまうと「純粋経験」ということになる。
「我々は主観客観の区別を根本的であると考える処から、知識の中にのみ客観的要素を含み、情意は全く我々個人的主観的客観的出来事であると考えて在る」
今思い出してみると、初めて西田を手にした中学生が、すんなりとこれを理解できたとはとても思えない。以前にも書いたが、父の書棚から引っ張り出した西田の書物を、ぱらぱらとやるうちに、「なんだかよくわからないけれども、ここにはとんでもなく重要なことが書かれている」と中学三年生のわたしは直感したのである。
そうして子ども向けの雑誌(『学習』?)に載っていたい西田の肖像写真を切り抜き、アグネス・チャンのブロマイドと一緒に、当日流行っていた挟み込み式のクリアファイル型下敷きに入れて持ち歩いていた。アグネス・チャンは、途中で古手川祐子やブルース・リーに入れ替わったけれど、西田先生は後々までわたしと苦楽をともにされた。
純粋経験の立場においては、知・情・意が重なりあって一つとなり、主観と客観、精神と物質、自己と他者、そういうもののすべてが重なりあっている。というようなことを云ってのけた西田に、わたしはもうしびれまくった。
西田哲学は生き方の哲学だ。決して論理的哲学一辺倒ではない。『善の研究』、その序文で西田は云う。
「この書物を特に『善の研究』と名づけたわけは、哲学的研究がその前半を占め居るにもかかわらず、人生の問題が中心であり、終結であると考えた故である」
西田は、哲学の中心に道徳を置く。その道徳の上位にさらに宗教を置く。そのあたりになってくると、もはや西田の独壇場だが、京都の哲学の道を歩く姿を想像するだけで、はい、西田はとてもカッコイー当時のわたしのアイドルとなり得たのである。丸眼鏡をかけても西田幾多郎になれるわけじゃないけれど。
◆某プロジェクトの新年会。
とにかく三時間、今年の七月にお台場から静岡に来るというガンダム話。
わたしなら、こういうふうにキャンペーンに使う、と全員で大盛り上がり。
それぞれのアイデアに大笑いしたり、深く頷いたり。
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