Noism1 「Nameless Poison 黒衣の僧」を観る 2009/12/21
◆ 批評をしたいんじゃない。応援をしたいんだ。
わたしは「言葉に力がなくなった」と言われる現代においても、まだまだ批評の力を信じている。だから「批評家みたいに云々」という常套句にひじょうに強い違和感を覚える。ただ経験的に言えることは、「批評」をしても人は成長しないことがあるという事実である。書けば書くほど距離ができる。そこをはき違えると、うまくいかない場合が多々ある。言語的正義(を振りかざす)がすべてを解決するなら、世界の諸問題はとっくになくなっている。
◆Noism1の「Nameless Poison 黒衣の僧」(チェーホフ国際劇場祭共同制作作品)を観る。
このダンスカンパニーの動きは紛れもない武道の、もっと言えば、空手の動きである。わたしが長年空手をやっていたことにこじつける訳ではない。演出・振り付けの金森穣が盛んに口にする「強度」は、たとえ金森が「空手など意識していない」と言おうが、それは空手の鍛錬と根源的な部分で通底している。きょうの舞台を観てそう確信した。ただ、集団的動きという点で、圧倒的に違うのは、ダンサーがi-potを耳に入れ(ときには全員同じ曲を、あるときには別の曲を聴きながら)動いていることだ。これには驚いた。観客とダンサーが同じ空間に存在しながら、だが、そこでは全く違う「音」を聴き(ときにはダンサー同士が別の曲を聴きながら)ダンスを媒介に対話している点だ。
わたしはNoismの動きを観て、鰯の群れを思い浮かべた。何かの信号をきっかけに、10人のダンサーがほぼ同時に身体をリズミカルに動かしていく様は、まさに魚の群れである。
もう一点、カンチェーリのラメントがこの舞台に使われていたことの意味は大きい。そもそもギア・カンチェーリの曲自体がひじょうに対話的だからである。
また、金森氏と宮城聡芸術総監督とのアフタートークも大変興味深かった。対話の何ヵ所かで金森氏が見せた沈黙によって、会場から幾度となく笑いも出ていたが、あの言語のわずかな差異を巡る格闘を観ていて、わたしは一切笑うことができなかった。
◆なんでも、不二家のミルキーで、ペコちゃんの顔10個が切れずに写っている包み紙に当たると運がいいんだそうだ。ご存じでしたか。
多くの場合、端っこでペコちゃんの顔が中途半端に切れてしまっている。これを教えてくれた学生に「それって、どこが発信元なの?不二家?」と訊くと、「友だち」という返答が返ってきた。このテのウワサは、だいたいが「みんながそう言っている」である。
一種の都市伝説的口コミは、今やネットによって加速している。口裂け女は確か日本中に広まるのに10ヶ月かかった。今では一週間程度で十分だろう。
◆ 天晴れ門前塾の成果発表会も終了。頭(かしら)を務めてくださった四人の社会人の皆様、代表の川野君、スタッフの皆様、まずはお疲れ様でした。
◆ 情報意匠論の授業用に、マッチボックス写真集を制作してくれたのは4年生で経済を学んでいる写真部の後藤和美さん。
◆掛川市の生涯学習「市民大学」「大学院」も追い込みである。
◆授業のときに「つきのぼうや」を見せて欲しいと言った学生さん、どなたでしたっけ(汗)
◆時間があればきちんと書きたいと思っているローカル誌『季刊 清水』のこと。結論を先に云っておくと、わたしはこの掌の編集を高く評価している。
◆頂き物のピーナッツ&チョコレート。実は消しゴム。
◆わたしも掌品を出品した『安倍奥の風景展 〜大切な場所』。
まだまだメモしておきたいが、こんばんは、この辺で。
あと、今夜中に原稿一本。
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